2006年度1学期後期「実践的知識・共有知・相互知識」   入江幸男

第6回講義 (May 23. 2006

§3 「我々」の実践的知識について(つづき)

3、「我々」の行為の基礎的行為(つづき)

(5)我々の行為を分割しつづけるならば、常に、いずれは個人の行為にたどり着くのだろうか。(これは来週のお楽しみ、としましたが・・・以下のその他の問題とあわせて、検討課題とします。)

 

4、我々の実践的知識と観察によらない知について

「我々はチェスをしている」は、観察によらない知である。

(1)この観察によらない知は、私の知だろうか。それとも我々の知だろうか?

我々の知であろう。「我々はチェスをしている」とxさんが答えるとき、xさんはそのことをチェスの相手のyさんも当然知っていると考えるだろう。ゆえにそれは「我々の知」である。もちろん、これは間違っている可能性はある。つまり、xさんはyさんもそう思っていると思っていたのだが、しかし、yさんは別のゲームをしているつもりであった、ということもありえる。しかし、そのような間違いは、個人の実践的知識にもありうることである。例えば、「栄養ドリンクを飲んでいる」と思っているときに、実は間違って風邪薬を飲んでいたことがわかることがあるのと同様である。

 

(2)では、もし「我々の知」であるとすれば、それはどういう意味だろうか。

 xは、「我々はチェスをしている」と知っている。

 yは、「我々はチェスをしている」と知っている。

この(1)(2)が成立しているということだろうか?

 

(3)もし我々の知だとするとき、「『我々はチェスをしている』は、我々の観察によらない知である」という知もまた観察によらない知であろうか?

 

(注)個人的な実践的知識の場合、「「私はコーヒーを入れている」を、私は観察によらずに知っている」という知もまた観察によらない知であるのだろうか。

然り? なぜなら、もしこれが観察によるのだとすると、それは内官による観察によることになり、この観察なしでは、「『私はコーヒーを入れている』を私は観察によらずに知っている」という知は成立しないことになり、この知が成立しないと、「私はコーヒーを入れている」という知が成立しているというとしても、それがどのようにして成立しているのかを知らない、と言うことになり、それは単なる信念と区別のつかないものになるだろう。

先週、この命題は、文法的な命題である(つまり、間違うことがないので、知ではない)と考える立場を批判的に検討したが、それは、この場合にも妥当するだろう。 

 

(4)もし「『我々はチェスをしている』は、我々の観察によらない知である」という知もまた観察によらない知であるとするとき、この観察によらない知は、私の知であろうか、我々の知であろうか?

もし、我々の知であるとすると、それは「共有知」ないし「相互知識」といった概念で研究すべき知になるだろう。

 

5、我々の行為について「なぜそうするのか?」と問うとき、観察によらずに答えるばあいについて。

「君たちは何をしているの」と問われて「僕たちはサッカーをしてるんです」と答えたとき、さらに「君たちはなぜサッカーしているの」と問われたとしよう。このとき、次のように答えるとすると、それは観察によらずに答えているといえる。

「僕たちはサッカーが好きだからです」

「僕たちは、来週大会に出場するので、練習しているのです」

これに対して、

「他の人はわからないけれど、僕は、将来サッカー選手になりたいのです」

という答えは、この問いに対する適切な答えにはなっていないだろう。なぜなら、問われているのは、「君」でなく、「君たち」だからである。

(1)我々の行為の意図についての知

我々の行為の場合、その意図は我々の意図であるとするとき、その意図を、我々は、個人の場合と同じように「観察によらずに」知るのではないだろうか?

(2)我々の意図を遡るとどうなるか?

我々の行為には、我々の意図があるが、しかし「なぜそうするのか」と問われたときには、もはやその答えとなる、我々の意図はないかもしれない。その理由は、個々人で異なるという場合がありうるだろう。我々の意図があるとしても、「なぜ、そう意図するのか」とさらに問えば、いずれは、からならず、個々人で異なる個別的な意図に行き着くのだろうか。そうとはかぎらない。たしかに、町のサッカー同好会の意図は、遡るといずれ会員の個々別々の意図にたどり着くだろう。しかし、そうでない場合も考えられる。例えば、子供であれば、彼の個別的な意図はむしろ家族の意図に行き着くのかもしれない。伝統的社会であれば、個人の意図は共同体の意図に行き着くかもしれない。